先月は日本語の勉強をしようとしてた……って、これ日本語版だった。先月はフランス語。今月はサワードウ。来月?知らん。あなたの脳のノベルティエンジンがまだ次の沼を落としてくれなくて、そわそわしてる。
「過集中ジャンキー」であるということは、あなたの脳が新しい趣味を感情の鎮痛剤として扱ってること──強力で即効性があって、供給が途切れた時の離脱症状がマジでエグい。人生が不快になった瞬間、脳は休息にも散財にも掃除用品にも手を伸ばさない。キラキラした何かに手を伸ばす。新しい何か。避けたい感情を完全に溺れさせるのにちょうどいい認知帯域を要求する何か。そして数日から数週間、見事に機能する。不安じゃない──忙しいだけ。うつじゃない──情熱的なだけ。問題から逃げてない──陶芸に向かって走ってるだけ。
ここでの心理学は、研究者が「体験回避」と呼ぶものにマッピングされる──望まない内的体験(思考、感情、記憶)を、強烈な外的エンゲージメントで置き換えることで回避する傾向。養蜂家になることに興味があるわけじゃない。興味があるのは、学習の新奇性フェーズに伴う神経化学的カクテル:ドーパミン、ノルエピネフリン、そして「今回は違う。今回こそ自分のものだ。今回は続く」という甘美な幻想。
続かない。そしてそれは性格の欠陥じゃない──メカニズムが設計通りに動いてるだけ。コーピング戦略は新奇性を必要とする。新しいものが新しくなくなった瞬間、感情的ディストラクションとしての機能が停止して、脳は熱々の石焼き芋みたいにポイッと捨てて次のフィックスを狩りに行く。放置された趣味の墓場は飽きっぽさの証拠じゃない。過去5年間の感情的危機のパンくずリストで、それぞれに3回だけ使った道具一式が墓標として建ってる。
お金が最悪の部分ですらない。最悪なのはアイデンティティの混乱。これだけ早く趣味を回転させてると、自分が誰で何を大切にしてるかの深い感覚が育たない。ランナー?画家?プログラマー?植物親?全部であり何者でもない。100個の浅い項目があって深掘りが一つもないWikipediaページ。周りには「面白い人だよね」「多趣味だよね」と言われて、褒め言葉として受け取る。だって代替案──何かに深く入って失望するのが怖すぎると認めること──は、向き合うにはリアルすぎるから。
人間関係のパターンも隣接してる。過集中ジャンキーは時々、人間を趣味と同じように扱う。友情や恋愛の初期段階は酩酊的──全部が新しくて、全部がドーパミンで、全部が注目。それが日常になると、同じ落ち着きのなさが発動する。関係を離れないかもしれないけど、注意は逸れる。物理的にはいるけど、精神的にはもう次の新しい何かをリサーチしてる。周りの人はそれを感じてる。名前をつけられなくても。
全てを繋ぐのは、静けさへの深い不快感。「何もしない」ができない。沈黙が耐えられない。退屈が実存的脅威。そして全ての趣味とプロジェクトとタブ47個の下には、気を逸らすものが何もなくなった時の自分自身と向き合うのが怖いバージョンのあなたがいる。
成長の方向は一つの趣味に永遠にコミットすることじゃない。スイッチが切り替わる瞬間に気づくことを学ぶこと──本物の興味が、好奇心ではなく回避によって駆動され始める瞬間。「この新しいやつマジでハマってる」と言ってる自分をキャッチして、ワクワクなのか逃避なのか正直に評価できるか。両方の時もあるし、その比率を知ることが充実した人生と二度と入らないモノだらけの趣味部屋の違いになる。
退屈と一緒に座ってみて。一回だけ。直そうとせず、最適化しようとせず、ポッドキャストで追い払おうとせず。ただ……その中にいる。逃げてるものは、実は逃げること自体より怖くないかもしれない。
